演劇をして自分を観て
もらうことの効用について

久しぶりに「ジョハリの窓」
と言う心理学の考え方について
考えてみました。

人は自分が知っている自分と
他人が知っている自分
そのどちらもが多ければ
多いほど自分らしく
のびのびと不安なく過ごせる。

過去のまねきねこでも
これをテーマに公演を
やっていたのかな?
すごく面白いテーマだな。

自分だけが知っている私

そこには本人が気づけ
ない才能や側面が隠れてる

また逆に他人だけが
知っている私は
ある側面に過ぎない。

この自分も他人も見えている部分
ここが広ければ広いほど良い
そして自分も他人も知らない私
の部分があまり大きくなりすぎると

不安や恐怖で自分を
見失ってしまう。
しかし他人に
「私ってどんなふうに見える?」
と聴ける機会は稀であります。

まぁティーンネイジャーや
20歳そこそこの若い坊
や女の人ならそれはそれで
初々しいものであります。

しかし40越えのおっさんが
友達とかに「俺ってどんなふうに
見えるかなぁ?」と聞いたら
お前行き詰まっているのか?
病んでいるのか?そんなに
深く考え込むのはよせ。

とか何とか言って流されて
しまうのがオチです。
演劇の稽古をしていて
厳しいフィードバックを
もらえると言うのは
「そういう意味で」とても
ありがたいことであります。

それが自分の思っている
感じていることと一致していれば
自分を飾らずに出している
と言う事でもありますし

もし自分でも思っても
みないような印象感じたことを
もらった時であればそれは
大きなチャンスである
かもしれません。

「その前提条件として」
今その環境やその相手に
どれぐらいの信頼感を
抱いているかはあります。

時々普通に暮らしていれば
こんなに気持ちが揺れる事は
なく、もっと安定して
生活できるのに
なんでわざわざ
こんなめんどくさい作業を
行っているんだろう
結果として物事は何も
変わっていないのではないか
と思う時もあります。

私は演じてると思っている姿を
皆さんに見せます。そして
同時に「様々な私」が皆さん
に見られている事でしょう。

これは境界線の問題でも
あります。自分と他者との
境界線の問題。
そこの通りが良くなり
熱の出入りが自由になり
自分のことを他者のように
他者のことを自分のように

「どれくらいの割合で」
感じられるようになるか。
そしてその感じたことを
どれくらい実感として
表現することができるか。

まねきねこに入って
最初の稽古の時に
ゆういちさんが言われたのは

「妄想を想像に変える」

それは私の思い描いてきたこと
ととても一致していました。
私は妄想の中で船を作っていました。
「妄想の船」
それは頭の中ではとても
自由に動いてくれるのですが
実際に現実の中に漕ぎ出すと
泥船のように崩れ去ってしまう。

これを本当の材料で作り
現実に変えていくことが
私の課題でした。

「創造、想像の船」
本当に役が行き来できてならば
その景色は必ず変わってくるはず
新しい景色を見に行こう。