できそうと言うイメージを膨らませる

昨日はディベートに行っていて
その中で全く資料のない
テーマに沿って議論をしました。

その中でベテランの人がいました。
その人が言うには
「材料がない場合はまず
イメージを膨らませること」
「理屈が合ってるかどうかよりも
まずこれはこうなんだよ‼
と相手に働きかける1点勝負(*゚▽゚*)」

確かに資料がない中で
論理的な根拠を探しても
見つからないわけで
だったら自分のイメージ
相手のイメージを
膨らませるしかない。

それが合っているかどうか
よりも重要なことがある。

ディベートと言うのは
ある論題に沿って
肯定側と否定側に分かれて
行うゲームです。
ジャッジの人にいかに
納得してもらえるか
訴えるかが重要です。

「論理で正しいと言う事だけよりも」
時には生き生きと
それを表現する必要が出てきます。

ジャッジも人間です。
そこに熱があるかないかと
言うのはとても重要です。
実際人間として
生きていく上で
何が本当に大切なのか?
良いジャッジはその素朴な
ところに立ち戻ります。

さてそのイメージについて

自分自身がまずその
イメージを持っていなければ
何も始まりません。
想像であり空想
ではありません。

そして自分の内からの
「問いかけによって」
そのきっかけとなります。

その問いかけは
無意識からのものも多く
自分で制御できるものは
少ないのですが

「本当に良い言葉」というのは
その無意識にも
働きかける力を
持っていると思います。

だから無造作に言葉を使わない事

…さてインプロと
つなげていきますよ(*゚▽゚*)

即興において
私たちが「できる」
とわかっている事をやるのと
できないことに取り組む
と言うのでは
そのパフォーマンスに
おいて雲泥の違いがある。

できることだけをやるのは
全くその人が安全な
スペースを出ていない
ことであり
「本人も飽きているので」
観客もそれを
見ていて何も感じない。

逆にできないことをやるのは
その必死さは
観客に伝わるけれども
ときには痛々しく
まだ見せる段階ではない
顧客に対しても
失礼にあたるものを
表現しているのかもしれない

けれど今までやったことの
ないことあるいは
できなかったことに対して
できそうだと言う
イメージを持って取り組むこと

「そうすることで」
無意識さんはきっと
その「できそうだ」に当たる
「根拠」を勝手に探し始める
のであり、その雰囲気は明らかに
楽観的になる。

観客に対しても
そのチャレンジングな
姿勢は伝わり
同情による応援から
共感による感情移入に

「変わるのではないか?」

だからできそうも無いことを
ダメ元でやるのは
明らかに準備不足の感がある。

自分自身自身の努力と工夫で
できるまでとはいかなくても
できそうだと言うところまでは
整えていくこと。
これが演者の最低限の
責任であるとも言える。

…わー(*゚▽゚*)私って言う事は
やっぱりなかなか立派ですよね(*゚▽゚*)
実行がほぼ伴っていないけれども(-_-;)

さあ〜シアタースポーツも
折り返しに近づいてきましたよ。
気合を入れていきましょう‼