共通言語の大切さについて

日本語と言う言語は
私たちが前提として
お互いに話せていると
言うことがあるので
そこに安心感があるが
実際はそこには大きな
解釈の違いが
「確かに存在している」

逆に外国の友人と
話すときの方が
言語としての壁は
大いにあったとしても
そこに非常に共感する
ところが大きかったりする。
「価値観の共有」

ジャズと言う分野
の即興について

彼らはお互いにジャス語
と言う共通語で
お互いに会話し
インタープレイする。
「感じたままの音を出す」

ちょっと堅苦しい話に
なりそうですが
ここは必要な重要な話だと
思うので真面目に行きますよ(*゚▽゚*)

まねきねこのインプロ稽古に
おいて私たちは
日々の稽古の中で
「共通言語となるべき」
スキルや考え方を学んでいる。

なのでここには自分の解釈を
入れない。もともとそれを
開発した人のもしくは
それを教えるゆういちさん
さよさんの意図を素直に
汲み取っていく必要がある。

これは自由とか不自由とか
言う問題ではなくて
インプロと言う存在自体を
成り立たせるための
最低限必要なマナーである。

即興、アドリブと言う世界に
おいて、何も存在しないように
知らない人にはそれは
不思議な世界に感じられるが、
実際そこには共通言語が
存在する。それが存在しない
舞台はただのカオスである。

「想いがいくら
大きかったとしても」

それは時として
その思い自体が邪魔になる
ことがあり得る。
お互いに伝わる言葉、表現
を確立すると言う
謙虚な姿勢がなければ
そこに伝わると言う
結果はありえない。

そういう意味で
シアタースポーツの中で
インプロと言う共通語を
学ぶというのは
非常に高度なことをしている。

前提として私たちは
互いにその土台となる考え方や
価値観やお互いを尊重し
共有できているかどうか?

そこには大きな隔たりが
あるはずだから
そこをすっ飛ばして
インプロと言う共通語に
たどり着く事はありえない。

わかってもらいたい
と言う気持ちが強い!
けど、「相手をを分かろうと
言う気持ちにおいて」
私たちはケチ過ぎる
のかもしれない!

…イヤ、もしかして
私だけか?(−_−;)

私は文章が好きです。
何度でも再確認できるから。

ただわかってもらいたいと
言う「気持ちが強すぎて」
私のは、いつも長ったらしい
文章になってしまうのですが(-_-;)

空気感と言うのは
存在しない。
実際にそこに言葉は
なくても
たくさんのやりとりができる。
その人たちだけ
聞こえる音や世界がある。

日本人には日本人の
外国人には外国人の
音楽家には音楽家の
料理人には料理人の
そしてインプロプレーヤーには
インプロプレイヤーの!

それを不思議と感じて
ついていけないと感じるのは
まだその共通語に対しての
認識がたりなさすぎるのか?

あるいはそれを
知ってはいても
自我の壁が強すぎて
そこに自分の色をつけて
脚色、解釈してしまうので
そこまでたどり
着けないかのどちらか。

たとえ私が、今時点で
そこに流れるものが
見えなくても
ついていけなくても
感じられなくても

「たしかにそこに
悔しさは存在する」

それが無関心でなくて
本当に良かった!

私はそこに対しての
焦りや苛立ちや
そして悔しさが
私の中に十分に
残っていることに

「私はとても感謝する」

今欠けているピース
がわかっている。
今まで私が使っていた
言語や表現がとても
狭く応用のきかない
面白みの少ないことが
わかってきた。

この世界はとても
広くそして面白い。