自分自身の場面よっての
振る舞いの違い
そのギャップの
大きさについて考えています。

動くことと言葉を発する事。

この2つはまるで別物ではある。
私は言葉、言葉に頼りすぎて
きたので体がそれじゃいかん
とメッセージを発し始めてきたので

今、少しずつ身体中心に
変えていっています。

仕事でも言葉に頼ることが多い。
すなわち今まで型に
経験に即して
横着するようになってきている。
昔みたいにチャレンジ
リスクをたくさん取ることが
少なくなってきている(・_・;

昔は言葉が未熟だったため
自分の中で言葉を
寝かせざるをえなかったのですが
その分だけその言葉には
重みがあったように思える。

3年ぐらい言いたいことを
言えずに寝かして
3年後に相手に伝えたこともあった。
相手はなんでもっと早くに
言ってくれなかったの?
といってましたが(・_・;

どちらにしてもシステマチックに
生きることは
世界の大きな流れの中に
意図として
隠されているように思えるが

そこから得られる安心だけでは
まるで人形のように
本当の意思とは関係ないところで
与えられた条件下において
生を貪ることになる。

この前稽古の最後にシェア
したときに
さよさんに今日初めて熱が
感じられたと言われたが

あーそれくらい
私は「冷めて」いるんだ。
よくわかる。
心が動く時間というのが
本当に少ない。日常で。

この年齢になって
いつもいつも非日常を
求めているわけでは無いのですが
普段の日常に
情熱を持って動いている時間が
あまりにも少ないことに
危機感を覚えます。

「そのアンバランスさ」が
非日常の表現の仕方を
極端にさせる。
まるでガス抜きをするような
表現にさせてしまう(・_・;

日常にその熱を持って
生きているだけで
非日常との境が少なくなる。
私はまだまだ全然
そこには達していないのです。

だからそういう機会が
あるごとに、とても緊張して
力んでしまう。
日常と非日常のギャップを
埋めていくこと。

そこを行き来することが
自分の「伸びしろ」
のように考えていましたが
逆にその伸びしろに
甘えているのではないか?

それだけの余力が
自分にあると
勘違いしているのではないか?

何度もそこを行き来する
環境が自分で作れているならば
「その間を経過するときに」
どうやったら自然な形で
どっちもそう変わらない自分
で過ごすことができるのか⁉

いろいろな面を持っており
それを楽しむのはイイし
それだからこそ人間は面白い。
ただガラッとまるで
脈絡もなく人が変わったように
変化する時期は
もういいのではないか?

そこは統合していく。

インプロはそこでやるだけでは
なく日常の全ての場面で
そのように生きること。

それは過去の自分との
整合性を取るためではなく
いろいろな目の前に起こる現実に
対してもういろいろ
準備をしないこと。

これは今の教育
の流れでもありますね。
アクティブラーニングとか。

今の自分は
とても制限された中で
その制限自体を
利用していると考えているが
実際はそこに甘んじて
いるとも言える。

その制限自体を
脱出する計画を立てているか?
そこから生み出される
エネルギーがその制限自体を
踏み台にして飛躍させる。

熱情とは見掛け倒しのものではなく
ただ普通に振る舞っていても
溢れ出てくる種類のもの

私のように大きな声や
大げさな言葉遣いで
無理やりに表現する
種類のものではなく

ただそのあり方自体が
どれほどの熱意に
支えてられているか?
感じる人がきっと感じる。
それが存在感と言うもの。

私はその境界線は
いまだにはっきりさせていない。
だからその表現自体が
大げさになるのだし
その間間に休息時間の
ようなものが必要と
なってくるのだと思う。

この今の感覚を覚えておくこと
今の自分に問いかけ
その声を聞くことに集中し
それは必ずしも
言語化できなくても良いのだと。

他者にアピールするための
問いかけではなく
自分自身が実感を持つ
時間を増やしていくこと。