子供と遊ぶことの効用

日曜日は思いっきり
子供たちと遊びました。
今日は最初からインプロの
話をしていきますよ(笑)

歌を歌うこと体を使って
お互いに体操のような
遊びをすること
猫や犬の鳴き声をして
非言語のコミュニケーション
をすること

これら全てがインプロ
でも必要とされることなのです。
突き詰めていけば
インプロとは子供に
帰っていくこと。

ただ私がインプロの中で
まだまだ取り入れられて
いないことの1つに

「何もしていない間
であったり静寂」
というものがあります。

何もしていない時
何も刺激を受けていない時は
何も起こっていないのかと
言うとそうではありません。

大切なアイデアが浮かんだり
ひらめきが浮かんだり
感情が沸き上がってたりする
それが自然な人間の
メカニズムだとも言えるでしょう。

私なんぞはいつも頭ばかり
使っているので首から下は
ほとんど動かさずに
空想だけを繰り広げていたり
することが多いので

ついつい何もしていない事は
何かサボっているような
時間を無駄にしているような
気まずいような
そんな感覚に襲われるのです(-_-;)

「刺激を受け続けることに
慣れすぎてしまっている」

子供は遊びたいときには
リミッターを設けたりしません
足が汚れるからと言う理由で
裸足になるのを
ためらったりはしません。

心そのものが感覚であり
感覚そのものが体である

頭でガチガチになっている
大人の私はそういった時間を
夢中になって、イヤ半ば
強制的に過ごしている時(-_-;)

だんだん開いてきたぞ!
と思えるような感覚があります
こんな無意味なことを
何故子どもは楽しんで何回も
何回も繰り返すんだろう?

と言うことを「半ば諦めながら」
やっているうちに
だんだん私も楽しく
なってくるから不思議です(*゚▽゚*)

まぁこれが日常で仕事をやって
いるうちにまたガチガチの
頭と体に戻っていくのですが(-_-;)

「自分の歌を奏でよう」

無性にそういう気持ちになります。
既成のの何かではなく
いわゆる「ジブリッシュ」
と言われる意味不明の音を
発する中から自分の声帯を
体全身を使って
響かせていく行く。

私はそれがカラオケであると
思っていたのですが
それとはまた別のものなのですね
カラオケは意識が上半身に
少し偏りすぎてしまう。

意識が全身にまで
隅々行き渡らない。

開いていくこと
響かせていくこと

今まで心と体と頭を
区別して考えていましたが
それを同じものとして
考えていくこと

心が体であり体は頭であり
頭は心そのものであり
全て同じように開いていけるし
響かせていくことができる

私はそーゆー自然物から
できているのであり
そこには当然何もしない
ということが含まれる。

一定の距離を持って
物事から離れてみる
いったん離れて物事を
見ること。立ち止まること。

自分と他人の境界を緩めて考える
緩めて考えるにはこの世界を
危険なものとして捉えないこと

安心していつでも開いていく
ことができる世界として
認識すること。またその認識
をするためにはその関係性の
もとに自分の身を置いていくこと。

すなわち閉じた守られた世界を
自分自身で用意すること
自分の身は自分でいつでも守れる。

その境界線を確保した上で
初めて自分自身のやりたい事を
形作っていくこと。

私が他者に関わる時
その世界の境界線は
とても柔らかに変化
していることを感じながら
感じられる世界を
「真に」作ること。

それがいわゆるオーラと
呼ばれるものであったり
他者との信頼関係
プラーナと呼ばれるもの
であったりするのだと思う。

今日は宗教染みた、いわゆる
オカルトのような感じの内容に
なってしまいましたが(-_-;)
そういう気分なので
許してくださいね(*゚▽゚*)

それでは月曜日に朝から
ヘンテコリンな内容の
ブログで失礼いたしました。
今週もがんばりましょう!