丁寧に物事を

作っていくことの効用

私は大雑把な人間です。
そして常に何かに
追われるようにして生きているので
物事を1つの物事にそんなに
一生懸命になったり
想いやこだわりを
詰め込む事はありません( ̄▽ ̄;)

ある程度まで仕上げたら
「次行こう次‼」
という掛け声とともに
その事は忘れたかのように
次の行動に移ります。

それが物事に執着しないための
結果にこだわらないための
自分に合った生き方だと
思っていました。

だから1つのことに
とても時間をかけて
いる人を見ていると
もう私の関心は薄れているので
他の人との共同作業が
とても難しいのです( ̄▽ ̄;)

しかし身近な人が
私が想像するラインを
「はるかに超えて」
物事に取り組む姿を見たときに

初めてその人の気持ちに気づく
その人の想いの量が
どれだけであるのかを。

それがたとえ不器用であったり
結果的にその試みが
うまくいかなかったとしても
私には「その純粋さ」は
とてもまぶしいものに映ります。

それは仕事でも義務感で無く
好きでやっていることであるならば
そこに一定の仕事や生活に
持ち込まれるような
理屈や効率は必要ないのかも
しれないな。

むしろそこに妥協をするならば

私の言う私自身の
こだわりというのは?
軸と言うのは一体どこに?(´・ω・)

本当に好きなことであるならば‼
そこには徹底的な
こだわりを見せるべきです。

たとえそれが
笑われるものであっても
滑稽なものであったとしても

きっと私と言う、私たちと言う
人生は、多くのつかみどころのない
99%の日常と言う中から
1%の純粋な自分を
「すくい取る」と言う作業
することを求めている。

それがあまりにも
つかみどころがないために
私たちは(私だけか( ̄▽ ̄;)
その99%の中に
妥協の産物としての自分自身を
「仮面として」作り上げます。

年齢を重ねるに従って
その1%を追うことの
リスクは大きくなっていく

私たちは命の限りのある存在であり

苦しみの中で
生きていくために
しなければならないこと

にとらわれすぎる。

しかしその1%に
見つけて火を灯すことができれば
いろんな物事が反転する。

ただしその1%には
理屈が通用しないので
それすらも残り99%のルールで
対処しようとするならば

またそれはつかみどころ
のない日常に埋没してしまうことだろう。

私が没個人として
埋没してしまわないためには
名もなき存在にならないためには

1%には特別な
ルールを適用する必要がある。
私だけの特別な。

相変わらず抽象的な
ぐるぐる回るような
思考で申し訳ございませんm(_ _)m