自分の致命的な癖を知ること

この年齢になって
それを変えていこう

その状態に持ちこたえるだけの
覚悟と状態が必要になってきます。

それを実行するためには
これがいつもの自分と思い込んでいる

それを強制終了(−_−;)
させる必要が出てくる

今はそれはお腹が
空いていないのに
お腹が空いていると
思い込んでいる
腫れあがった胃袋のように

際限なく肥大しているのかも
しれない。その自動反応のみが。

本人の感覚も何かわかる
何か自分がひとつひとつ
意思で動かしていると言うよりも
ただ惰性によって
自分の反応が促されているような
麻痺しているような

そーゆー反応が自分を
意味もわからず
余計にイラ起たせることがある。

顔を上げて‼
目の前で観客が
どんな顔をしているのか⁉
自分の表現に対する
反応が鏡として必ずそこにあるから‼

自分の内面を振り返るよりも
確実なもの
がそこにはある。

それを無視して物語
を進めること

ここには循環が存在しない。

そこにはエネルギーの滞りが生じる。

ただ顔を上げて
相手の顔を見ること
行動、自分でも止められない
自分の中だけで完結している
動きを強制終了させることが

やっと意味のあるものとして
その時初めて現実は
動き出し、やっと誰かと一緒に
過ごす意味が出てくる。

滞りがあるのはわかっていて

なおかつそれを見ないように
感じないようにするのであれば

それは自分自身の
その感覚を、その部分を
殺すと言うことである。

それだけで止まれば良い
でもそれが厄介なのは
そこに関わる私たちの
大切な人たちその相手も

巻き込んでしまうこと。
そのシンプルな相手を
見ながらその喜びを
交換しながら生きて行く。

そんなささやかな
そして本当の意味での喜びを
相手から奪うことにもなる。

エナがブログで書いていたのは
本当にそうだと思う。

静かな熱であっても
暖かな優しい熱であっても

極端なことを言えば
それがない時は
舞台上で休んでもいい

熱がないのにひたすら
動き続けることは
展開が早い。

熱のバトンタッチ

私たちに救いがあるとしたら
私たちは今を生きていること
失敗と再認識できるのは
まだ私たちが生きているから

この世界はまだ私たちに
それをもう一回‼(*゚▽゚*)
とリプレイできる猶予期間を
与えてくれている。

ゆっくり時間をかけて
立ち止まることでしか
見えない風景がある。
顔を上げて自分で1人で
悩むよりも顔を上げて。
目の前の景色を見ることでしか
動き出せない物語

この世界にはそーゆー
種類のものは確かにある。
いやそういう種類の物語で
この世界は成り立っている。