こんばんは〜こういちの哲学
の部屋にようこそ( ̄▽ ̄)

私は即興演劇と言うものが
一つ一つ自己の囚われを
外していくための
とても有効なツールで
あると思っており

現代人がもはやとても
難しくなっている
人とつながると言う行為を
この世の中の多様な価値観を
「くぐり抜けるように存在する」
アートであると解釈します。

目に見えない心と言う存在
さらにそこから空想するイメージは
全く一人ひとり異なるもので

それが一致していると
いうのはいわゆる幻想に過ぎない。
ただそこに近づくために
私たちは言葉を交わす。

絶望し、 自己の居場所を見つけ
争い、競争し、愛し合う
もともと共に集まる場で
切っているカードと言うのは
自分が見せたい自己そのものであり
それを皆に認めてもらいたいと
言う承認欲求の表れである。

「そこまでして」
自分がこだわっている自己という
存在は空っぽであることを知ること
それは自分自身で作り上げた空想で
あり、執着であり、囚われであること。

肉体は成長し、衰え、そして
朽ちていく。

その中で自分自身の
空想だけが美しくあり続ける
この現実とのギャップが
人を苦しめる。

言葉だけで人と分かり合い
つながりあうには
その背景にとても大きな
価値観の共通する
大きな共同体が必要となる。

もしもそれが背後になかった場合は
自分自身の大切なカードを
勇気を持って「切る」ことが
とても傷つけられ損われる
リスクを大いに孕んだ
社会となっている。

誰か他者を演じると言う行為は
見ている人の目を意識する
と言うことである。

私たちは素人の
劇団員であるからして
そのキャップは相当
大きなものとなるだろう。

自分がこう見られている
だろうと言う自分と
観客が見ている自分

欲を言うならば
そのお互いのイメージの
ギャップをより近づけて
いくことが質の高い
アートを提供すると
言うことなのだろう。

…私は言う事だけは
偉そうなのです( ̄▽ ̄;)
これを読んで
「この人はすごい役者」
なんじゃないか?
と勘違いした方は
大いにその考えを
改めてくださいね。

きっとその「ギャップ」
に1週間ぐらいは
「怒りで💢」眠れなくなると
思いますから( ̄▽ ̄;)

イメージをすることを
あきらめない

そしてそれは違うのが
当然だと言うことを知って
そこからどうするか⁉

「にっこり笑って」

その時の景色を見てから
考えること。

寒くなってきましたね
皆さんお体ご自愛下さいますよう
演じる人も見に来てくれる人も
すべての人に良きことが
降り注ぎますように。