悪口のところは、とてもみんなが
それぞれブログで思い
があるように私も
とってもとっても苦手な部類です。

私の心の中にはとても傲慢
な部分があり、ちょっとでも
油断するとそれが出てしまうので
常に自分を監視してないと
その邪悪な部分が
出てしまうのを恐れているのです。

つまり私の言葉には
愛がないのです。
これはどうしようもないなぁと
思っています。
だから私の人間付き合いの
賞味期限はとても短く
長期間の付き合いには
耐えられないところがあります。

人に対して悪口を言うと
言う事は本当に有り余るほどの
愛があって初めて言える
私の様にただ分析的に上から
目線で言う事は
誰でもできて1番簡単なこと。

1回だけ人に対して
本当に耳の痛いことを言って
衝撃的に伝わったことが
ありました。

しかし、その心の準備
に私は3年と言う時間を
要したのです(-_-;)

今の私は頭で生きている。
頭から気持ちを通り
そこから初めて実感を伴う
言葉が出てくる。

私は頭から直で
言葉が出てくる。
人の心動かすのものは
これっぽっちも
持っていない。

私が真剣になると
常に怒りが伴って出てくる。
なんだろう?この感じ
言葉もめちゃくちゃ汚くなる。

だから真剣になればなるほど
私は人を恐怖させる!
このことは前に
このブログでも書いたんですが
さよさん、なっちゃんは
私のことを本当に怖がっていた。

その時の私はすぐに
投げやりになってしまうのです。
「じゃあいいよ‼人が真剣に
なってるのに‼そんなに
俺のことを怖がったり
嫌ったりするなら
もう真剣になんかならないよ‼」

…あぁ本当に子供です。
アダルトチルドレン。
まとも大人なふりをした子供です。

目が釣り上がり
鬼のような形相になる。
その時の自分の顔を
鏡で見ると本当に恐ろしい醜い。

決定的に思いの積み重ねが
不足しているんだなぁと思う。
こーゆー本音に近い
やりとりをするような
ワークをすると

けれどそれで涙を流せる
なっちゃんのような人もいる。
怒りで武装して全身を
鎧で固めている私と
自分の弱さやみっともなさを
これでもかと表現している
なっちゃんと
どっちが本当に
人間として強いのか?

自分の弱さが嫌いで堪らず
私はそれを大切な人が
離れていかない限り
本当の意味で悔やむ事は
無いのだと思う。

さよさんが
良かれと思ってやっても
いつも私は一人ぼっちになる。

と稽古の時に何度か
言っていましたが
それがわかっていて
それを繰り返すさよさん。

自分のことを
わかった上でそれを魅了に
変えようとする
覚悟を決めるなっちゃん

同じ時間を過ごす
仲間なんだけど
立ち位置が全然違う。

私は今の自分をなんとか
加工してより良く
見せようとしている。
小手先の細工をしよう
としている。

もう根本的に深掘りをすること
は自分ではない!と決めて
いるかのように!
私はこれでいく!
と深いところでは
決めているかのような傲慢さ。

でもやっぱり
この弱さを未成熟のまま
ほったらかしには
していけないんだなぁと
なっちゃんの
ブログを見て思いました。

そこには大いに他者依存がある。
それは自分の問題だからいい
でしょう?と言う自分勝手は
許されない。
私は頼られる役割を担っており
その人たちが私を模倣している。
もしくは頼りにしている。
その人たちをがっかり
させ続ける事は
私が今まで関わって
そして期待を込めて
見送ってくれた人たちに
対しての冒涜であり
裏切りでもある。

期待を裏切らないこと。

他者のために生きると
言う意味ではなく
人の純粋な心をもてあそぶような
事は絶対にしないこと。

本当に私は真剣に
生きることが苦手です。
そこには何があるんだろう?
多種多様な感情の中で
怒りしか表現できない
自分のした決断とは
何だったんだろう?

人生とはゲームで
あり遊びであるが
本気で遊ばなければ
そこには何にも
意味がなくなってしまう。

役割を自分で決めて
選んだのであるならば。