昨日の稽古でとても
大切なことを
教えられていたので
それを追加で書いときます。

舞台の上では
それぞれの癖が全部出る。

真ん中で誰に向かって
演技をしているのか
はっきりさせないと。
端っこに立っているだけでは
せっかく見に来てくれている
お客様にサービスにならない。

お客様、観客は自分を
見に来てくれているのだと
言う意識を常に待つこと。

予想外のことが起こっても
全て生かせる!
何も伝わらないのは
自分の中に
はっきりとしたものが
何もないから。

答えはない場面で
自分ならどうするか?
と言う稽古を最近
何回かやりました。

その中でリアリティーを
持って演技をできた人は
いませんでした。

これは仕方がないと
片付けるのか?

いやそれはもったいない。

なぜ答えがない中に
今リアリティーを
私たちは持ってくる
ことができないのか?

要はそういう
問いかけだと思う。

答えはそれぞれ
違うと思うけれど
私の世界に対しての
リアリティーは
その程度だと言うことを

この稽古では
見せられてしまう。
そんな現状いやだよ。
だけど仕方がない

「私は自分の足で立っていない」

昨日のト書きの芝居でもそうだ。
どんなに言葉を積み重ねても
自分の行動につながらないのは
1ミリも話した内容が
芝居にならないのは

私がなんとなく
ぼんやりとこの
世界を生きているから。

ただ言われたから
やるだけになってしまっている。
自分の軸や主体性がない。

なんだろうこの感じ?

それはいつもではない。

ただその場をリードしている
ゆういちさん、さよさんに
完全に意思を預けきって
しまっている。

インプロの中の
バランスと言う考え方

責任を取っていく
取り合っていくと言うのが
最も望ましい。

主役も脇役もないし
完全なリーダーも
完全なフォロワーも存在しない。

三期参加のシアター
スポーツのメンバーが
終了後の感想で
言っていましたが

無我夢中で舞台で
演じているうちに
自分でも驚くほど
長い時間そこに
立ってられたのは
他のメンバーのおかげだと。

1人の力ではとても
そんなに長い間
舞台に立つことは
できなかったと。

とてもいい言葉だと思う。

まねきねこの初期の頃に
「コンタクトインプロ」
というものを習ったことがあり

体のバランスを
お互い感じあいながら
取り合いながら
パフォーマンスをする

それはとてもフェアな
関係であり、自分の体の
力はこれぐらいだと
思っていたところが
他者の力を借りることで
思った以上の
パフォーマンスが
できたりすることに
大きな喜びを感じていた。

いつだって誰とだって
こんな関係が作れるはずだと思う。

そこにいる一人一人
がかけがえのない存在であり
誰1人がかけても
そのパフォーマンスは
完成しない。
作品はできあがらない。

このことが「本当の意味で」
理解できていれば
腑に落ちていれば

ほんの一瞬でも
自分は気を抜く事は
できないはずだし

相手から目を、意図を
離すことだって
できないはず。

欠けているのは
練習での準備でもなく
何故それをして
いるのかと言う目的。

私たちはAIロボットではない
一律に命令をして
その情報から出力する
と言うやり方は
根本的にできない。

インプロは確かに
失敗を許してくれる

しかしそれは最初から
エクスキューズを用意した
臆病者の権利ではない。

そこには責任が置かれて
いることに気づき
その瞬間に自分の役割を
自分で決意したものへ
与えられるギフト。

私達が一緒に
過ごしているこの時間は
偶然ではなく必然である。

「だとしたら」
その役割を全部
取ってしまうのは
傲慢だしバランスが悪い。

「かといって」
そのチャンスを
全部他の人に譲ってしまう
自分は脇に徹するということも

その場所のエネルギー
を下げてしまう。

やはりゆういちさんが
言うように
「争うようにして」
舞台の真ん中を
そこに置かれた
チャンスを。責任を。
「奪うようにして」
取り合っていくと
いうのが本筋なのだ。

そこに生じる摩擦こそが
熱を生み出して
そこに触発されて生まれた
アイデアこそが意味がある。

今私に必要なのは
自己を正当化する
エクスキューズではなく
自分の目的、目標を
わかるような形で
常に整えておくこと。

それを忘れたとしても
それをそばにいる
人に感じさせる位の

これから言葉をもう少し力強く
使う。行動につながるように。